生きる意味を実際に自分で定義してみた

みなさん、どうもがじゃです。今回は「このブログの作者である私(がじゃまる)の生きる意味」を中心にお書きします。前回までの記事で「生きる意味は存在しない」「生きる意味は自分で定義するものだ」とご紹介いたしました。

なので今回の記事はあくまで私個人が定義した意味だとご解釈ください。このブログを読んでる皆さまも「自分なりの生きる意味の定義」をして頂いて構いませんし、当然私も干渉いたしません。あくまで私の定義なのでご自身の人生のご参考程度に考えて頂いたら幸いです。

私にとっての生きる意味は

本題からいきます。私にとっての生きる意味の定義の根本は「私と私に関わる周りの人が幸せであること」です。私は生きる意味をこのように定義しました。このように考えたのも経緯があります。私が若く病気を発症してしばらくしてから、自分の不幸を憐れみ絶望の中、当時一人暮らしの部屋で天井を見て極度の抑うつになり動けなくなった時のことです。突然、その辛さを考えてる中で閃きのようなものが脳内を走ったことから始まりました。

それは「僕は幸せになっていいんだ」というなぜか、自然と湧き出た感情でした。今でも覚えてます。突然その考えに気づき、その瞬間から体がすごく軽くなり、何かこう優しさに包まれたというか絶望の中に私の中でひとつだけ希望・幸せが生まれたのを確かに感じました。

しかしそこから、では私が幸せになるにはどうすればいいか?と考えた結果、とてつもない問題に気づきました。それは「私の幸せとは一体何なのか?」という思いです。考えてみたら、私は自分の病気に関わる不幸ばかりを見ていて私の幸せについて考えたり、発言したことがなかったのです。いつも「病気にならなければ◯◯してたのに」ということばかり考えて腹が立ち苛立っていて現状の私の幸せに気づいていなかったのです。

その課程で私の脳裏にあることが思い浮かびました。「私が幸せになるにはまず自分を受け入れることだ」と。私はそれまで自分がとても嫌いでした。

コンプレックスとネガティブで卑屈になっていました。世の中の幸せそうな人を妬んでました。両親や友人、昔付き合った恋人がも含めて信頼もしていませんでした。

しかし「こんな駄目で愚かで無力な自分だけど、そんな駄目な所も含めて自分で可愛いなと思って愛してあげよう」と思うように解釈ができて、私は自分のことを好きになることができたのです。「こんなおっちょこちょいで適当で、病気でたいしたこともできなくてすぐ抑うつで倒れて、でもそんな自分も好きだな」と思うようになりました。

そこからですが、私に不思議な現象が起こりました。

それは「根拠のない自信」が突如として生まれたのです。何も実績も自信もない私がなぜこの「根拠のない自信」からどう回復して現状まで至ったのかに関しては発症エピソードの続編にあたる回復エピソードで後日ブログに記します。

話を戻しまします。「自分のことが好きになった私」は「人を好きになる感情」が初めて生まれました。それまでの恋愛は私にとっては成り行きや恋愛の真似事だったのです。そこから今の私の妻となるべき人と結婚をするまでに至り今は二人の生活を送っています。

私にとって幸せの二つ目のステップは私を理解するパートナーと出会うことでした。私は愛することがどれだけこの病気に大切かその時気づいたからです。なぜならお互い協力し相手に尽くすこともまた大きな生きがい・生きる意味であると気づいたからです。

そのために周りの人には決して見せない並々ならぬ努力をしました。その努力だけは大きな自信があります。よく「パートナーがいる人はいいなぁ」と病気に関わらず言われますが、私は大切な人を見つける努力は苦難と挫折を繰り返しました。

ただ漠然と「恋人が欲しいな」ではなく「どのような目標設定をしたら恋人ができるか」を分析し生き辛さの中で実践しました。なので、この「見えない努力」を具体的にブログに書くことができれば嬉しいなと思っています。今回はその話は置いておきますが、ここでこの記事の本題になる「私の幸せの定義」のお話をいたします。

私の定義はそこから「私の妻と私の周りにいる私たちに理解がある人間が幸せ」なら私は構わないという考えに変化しました。私はそう再定義しました。

ですがこれから本音の汚い話をします。「私の幸せの定義」は裏を返せば「私に関わらない人にまで関しては深入りせず考えないこと」です。なぜなのか。

それは私が潰れてしまうからです。

私は自己犠牲をしてまで世の中の人をみな幸せにできない、たった一人の無力な人間だと自覚しているからです。もちろん、全ての人が幸せであって欲しいという思いは心からあります。でも、それは願うことしか出来ません。

さらに、私の周りの人というのも「私と相手が相互に理解し合ってる人」であって表面的な付き合いをしている人までは広げられません。これも同じく私が潰れてしまうからです。これは私が定義した根本の幸せに反し達成することができないからです。

なので私にとっての幸せの定義を、私は人生を切り開く中で以下のように再定義・追加しました。

私が愛する人を含めた家族や周りの人が幸せであること。
生きていける程度、清貧で構わないので収入があること。
社会に貢献すること。人の役に立ち、感謝されること。
信頼できる友人関係を作ること。
心身ともに健康を目指すこと。

私は生きていく中で上記のことを目標として生きることにしました。最初は大きすぎる目標であり潰れそうになって、できないと思いました。目標が大きすぎて抑うつになったり希死念慮も強く出ました。でも「私が幸せになる為に絶対しなければならない」ということについて一つずつ具体的に地道に達成していきました。

これには「絶対に幸せになる」という私の強い使命感すらありました。これが私の生きる意味なのです。私はこの為に生きているのです。周りの人からどう言われようが構いません。私が私で決めた幸せなのですから。

で、今は幸せなの?

今が幸せかどうかと、もし問われたら私はこう答えます。

「そもそも生きるということは辛いことだが、その中で私が定義した『生きる意味』が満たされた時の幸せを、例え小さいものであっても大切に感じて『自分は幸せだ』と再確認したい」です。なので生きていてずっと幸せなわけではありません。

落ち込む時や抑うつや希死念慮で全て投げ出したい時も当然あります。しかし私は人生の辛さの中に上記の幸せを見出しました。これが私の幸せです。それは自信を持って宣言できます。

このブログを読んでいる皆さまの中には色々な状況があると思います。私もまだまだ視野が狭いのですので、本当に辛い方もいることは存じ上げています。

ただ、私は自分の幸せを重視して「社会に貢献して、人の役に立つこと」という私の幸せのひとつを果たすためにSNSで発信したりこのブログを作っています。

それは同時に、このブログでも一人でも救われたという人がいれば私は構わないのです。悩んでいる人を個別に考えてあげたり寄り添ってあげたりすることは私にはできませんが、このブログを発信して読んで頂けることは読んだ方だけではなく、私にとってもそれは幸せを呼び込むことだと思っているからです。

このブログにお問い合わせで数人ですが、救われたというメールを送ってくれた方々がいらっしゃいました。私はその方々に関して、自分のように嬉しいでした。偽善者だと思われても構いません。私にとってこのブログを書くことが「生きる意味」をこえて「私の生きがい」になってきたからです。

毎回、長い文章で誤字脱字も多いのですが「生きる意味を考えるシリーズ」はこちらで終わりになります。これから先の私の人生も、あなたの人生も状況や環境が変わるかもしれません。

だけど、そのために「生きる意味を定義する」というのは私も含めてみなさまの幸せへのステップだと私は思います。常に目標を設定しましょう。

どうぞ、あなたの現状とあなたの今がより幸せに向かっていくことを私は願います。

この記事のライター <<がじゃまる>>

≪がじゃらぼ≫の執筆・運営をしている、WEBライターの”がじゃまる”と申します。高校時代に両親や友達との葛藤で統合失調症を発症。16歳の春にストレートで隔離室へ。紆余曲折を経て病気を抱えながら大学へなんとか入学・卒業。抑うつと希死念慮を抱えながら商社での一般企業オープン雇用(2014.11~)と結婚(2015.7~)をもとに、精神疾患の悩みや共感をお伝えしてます。

Twitterはこちら>>> @gajamarudesu

お問い合わせ>>>>> お問い合わせフォーム